PROFILE
●ベーコン活動史その①
※その②は下の方にあります
2000年~2016年
執筆者こうどたくや
2000年
●メンバー:Vo加藤 G神門 Ba住田(サポート) Dr北風
3月、関大前のTHホールで初ライブ。ライブ中、ほとんどの客が帰ってしまう散々なライブでした。
●メンバー:Vo加藤 G神門 Ba森山 Dr北風
6月、現ベーシスト森山加入。ステージで暴れることを加入の条件としたら真っ先に手を上げてくれました。
●メンバー:Vo加藤 G神門 Ba森山 Dr三軒(サポート)
9月、先先先代ドラマーに現noidの三軒くんが半年の期間限定で加入。
自主制作の音源ブートレッグBacon①②をカセットテープで配布。当時のインディーバンドはまだまだカセットテープが主流で、CDは高嶺の花でした。
冬頃、活動拠点を広げ扇町DICE(現para-dice)、梅田バナナホール、心斎橋サンホール、ネストサルーン等に出演し始めるが、なかなか手厳しい反応でした。
2001年
●メンバー:Vo神門 Key加藤 Ba森山 Dr三軒(サポート)
1月、念願の十三ファンダンゴに初出演。Baconにとって初めて何かを掴んだ日でした。以後今日まで毎月のように出演し続け、自称ファンダンゴ最多出演記録保持バンドとなることはこの時に誰が想像できたでしょうか。
1月20日「open sesami vol3」十三ファンダンゴ。共演はYOGURT-pooh、HAPPY UNDER RIVER、ジャカランタン。
●メンバー:Vo神門拓也 Moog笑瓶 Ba森山唯 Dr松下隆也(サポート)
4月、先代キーボーディスト、笑瓶が加入。加入の条件はステージでモーニング娘のモノマネが出来ることでした。
4月、先先代ドラマーに松下さん(※2019年現ASTROLOVE,Dlove the world,立てる)加入。俺が叩けば100倍良くなると言って入ってくれた通り、ここから怒涛の快進撃が始まりました。
夏頃、松屋町のスタジオガンボでブートレッグBacon③を制作。これまでカセットテープのみだったが、初のCDで発表できたことが嬉しかったです。
冬頃、ART-SCHOOLのサポートアクトを務めたことをきっかけに当時盛り上がりつつあった、インディーギターポップの波に少しづつ乗っかっていきます。
2002年
初めての東京ライブは渋谷屋根裏(※諸説あり。深夜の新宿ロフトが東京初ライブかも)。当たり前のことですがお客さんが標準語を話してることに衝撃と感動を覚えました。当時個人でイベントをやってる方々が多く、そんな人達の目にとまるようになり、徐々に東京でのライブが多くなります。名古屋のクラブロックンロールに初出演したのもこの年でした。
12月3日「SONIC CUBE vol2」渋谷eggsite。共演は真空メロウ、つばき、bus tribute
2003年
Baconにとって環境が激変した年でした。初の自主企画「にくのひ」を開催すると同時に、自主制作のミニアルバム「what’s Happiness?」をリリース。イベントは100人以上動員があったと思います。大阪の無名なバンドが突っ走っていく様は今から考えてもとても痛快でした。(このイベント模様は10周年DVDでみれます)
2月9日「にくのひ」十三ファンダンゴ。共演はサンプリングサン、pop chocolat
そのミニアルバムを引っさげて東京に向かいます。今をときめくアジカンと共演したのもこの日でした。
初めての広いステージで思うようなライブができず、楽屋でしょげていたら松下さんにおちょくられたのを覚えています。が、お客さんの反応はよくCDもこの日でほとんど完売しました。
ちなみに今ではすっかり仲良くなった町田直隆くんもこの日DJとして参加してました。
3月21日渋谷ON AIR WEST。 共演はASIAN KUNG-FU GENERATION、ザ・ガールハント、真空メロウ、他
この日のライブでアジカンと仲良くなった僕らは早速大阪で2マンライブの企画を打ちます。この時初めてワープロを使用して企画書を作成したりかなり気合入ってたのですが、あと少しのとこで都合がつかずこの企画はお流れになりました。この日の僕は荒れメンバーにキレた(八つ当たり)ことを覚えています。
後にも先にも僕が本気で怒ったのはこの時だけです。
この年は勢いに乗ってかなり頻繁に東京に行ってます。交通手段は主に夜行バスや青春18切符で、行っては帰っての繰り返しだった気がします。そして徐々にですが渋谷や下北周辺のギターロック界隈のバンドと親交を深めていくことになります。特に渋谷屋根裏はかなり頻繁に出入りしていた年でもありました。
10月26日「楽戦」渋谷屋根裏。共演は片山ブレイカーズ&ザロケンローパーティ、他
2004年
●メンバー:Voコウドタクヤ Moogヨシカワ'ショウヘイ'ヒロユキ Baモリヤマユイ Drムラオシュウイチ
以前からデモテープをいろんな会社に送り続けていたのだが、唯一、声をかけてくれたのがUKプロジェクトでした。
特に関西からというのが当時は珍しかったのかもしれませんが、なかなかの好待遇で受け入れてくれました。初めてUKの社長と顔合わせした時、酔っ払ってビールを社長のズボンにこぼしてしまったことも今では良い思い出です。そんなかんだでUKからの1stアルバム「Bacon」を5月26日に発売します。そしてレコ発にはあのTOMOVSKYや音速ラインと共演させていただきました。
8月11日「1st MINI ALBUM 『Bacon』発売記念LIVE」下北沢 ベースメントバー。共演は音速ライン、FREEZER NOIZE、ハッカ
8月14日「1st MINI ALBUM 『Bacon』発売記念LIVE」十三ファンダンゴ。共演はTOMOVSKY、サンプリングサン
時を同じくしてリズムをしっかり支えててくれてた松下さんが辞めてしまいます。さあこれからという時に、困った。実に困った・・・・・。これを機に東京へ移住してドラマーを見つけて活動することも考えましたが、そこまでの覚悟は無かったというのが今だから言える事実です。そこでpop chocolatの愛可ちゃんにパルナスでドラムを叩いていた村尾修一くんを紹介してもらい、Baconの黄金期を共に歩んでいくことになります。
この年から東京のライブは主に下北沢でやることが多くなってきました。当時ハイラインレコードというインディーズ専門のレコード店もあったりして下北周辺は音楽で溢れていました。ライブの後も打ち上げに参加し朝まで飲み、昼バスで大阪に帰るということを毎月のように繰り返していました。雑誌のインタビューや、ラジオの出演も数多く経験させてもらいました。一度、スキップカウズさんの生番組に呼ばれた際、泥酔して登場し、番組スタッフにひどくお叱りを受けたのも忘れられない思い出です。
秋口にBase Ball Bearというバンドとスプリット出しませんか?との話が来ました。彼らはまだ10代で演奏も楽曲もまだまだ発展途上な感じがして正直、気がノリませんでしたが、みるみるうちに成長し、僕らを追い抜くどころか宇宙の果てまで行ってしまいました。今から思うと彼らは若いにもかかわらず、しっかり自分たちのビジョンを持ち、かつ有能なスタッフに囲まれていました。なるべくしてなった姿です。まだ彼らは僕達の事を覚えてくれているだろうか??そのスプリットはこの年の暮れにB Beginningというタイトルで発売され、翌年の2月に下北沢GARAGEでレコ発を行いました。
2005年
デビューアルバム、売れ行きはそこそこだった(当時の話です。今ならかなりの枚数だと思います)にもかかわらず、下北沢界隈では結構話題に上がりました。健康的なバンドマンなら複数の女性関係や、イケナイブツなんかにも手を染めそうなもんですが、そういうことには目もくれず(他のメンバーは知りませんが・・)毎月東京ー大阪間を行き来し、かなり精力的にライブを重ねる一方でフルアルバムのレコーディング準備に取り掛かっていました。アルバムに必要な楽曲がなかったので、急遽曲作りを、しかもレコーディング中にやったのを覚えてます。その曲がthe band-steadyという曲で、何かあるとすぐスネるメンバーを皮肉った曲であることは今だから語れる事実です。
レコーディングは5日間ほど東京に滞在して制作しました。その間、新宿のホテル泊まったり、エレキベースの坂本君の家や村尾君の友人のシェアハウスなどを転々としました。
ある日の夜、森山君から真剣に「東京に移住しませんか?」と言われたが「だんじり観に行けないから、」と即答で断ったことを覚えています。そしてめでたく2ndアルバムを2月16日に発売します。当時しのぎを削り合ってたテルスターが同時期にアルバムを発売し、ハイラインチャートを賑わせました。結果はテルスターが1位、Baconが2位。
そんなテルスターと大阪でWレコ発を行います。以降このVSシリーズは恒例行事から伝統芸能へと変化して行きました。
2月24日「テルスターvsBaconWレコ発記念LIVE」十三ファンダンゴ。
3月19日「SET YOU FREE ~Baconレコ発記念LIVE~」下北沢CLUB QUE
この時期から今でもお世話になってますSET YOU FREEのイベントに参加して行きます。この年の夏に初めてサマーフェスタに出演し、サンボマスター、銀杏BOYZ、メガマサヒデら強豪勢と共演しました。今までに経験したことのない大会場でかなり緊張しましたが、アルバム発売したばったりで調子に乗ってたこともあり、なかなかの好反応でした。(このイベント模様は10周年DVDでみれます)
夏頃、下北系ギターロックバンド達が自主的にシーンを作り出そうと第3世代という団体を発足させました。Baconも大阪のバンドであるにもかかわらず、そのシーンにひょっこり乗っかっていきました。・・・・・とある夜、渋谷の洋風居酒屋にバンドマンが集結し決起集会を開き、僕も翌日ライブでしたので参加させてもらいましたが、まるで討ち入り前の赤穂浪士、はたまた2・26事件の青年将校の如くエネルギーと気合に満ち溢れたものでありましたが
僕自身はあまり発言もせず冷静に事の成り行きを楽しんでいたように思います。
そして全国各地を第3世代名義でツアーし、コンピレーションアルバムを発売しました。
そのツアーでBaconは大阪と神戸の仕切りを任せられたように思います。ファイナルは渋谷クアトロ。400人以上集め大盛況に終わりましたが、その後バンドが活動休止や解散でシーンは沈静化。かくて第3世代は自然消滅していきました。今から思うとバンドが主体となってサーキットイベントを開催するバンド達の先駆けとなったのではないでしょうか?
9月25日「TOUR 第3世代 FINAL CLUB QUATTRO!!!」渋谷クラブクアトロ。共演はザ・ガールハント、BANK$、GRiP、ダブルオー・テレサ、Lucky13、FREEZER NOIZE
2006年
●メンバー:Voコウドタクヤ Moogヨシカワ'ショウヘイ'ヒロユキ Baモリヤマユイ Drナガエ'アル'ユウジ
泣きメロで9割が恋の歌というのが当時のイメージキャラクターでしたが僕自身は「それだけではないんだ」というアーティストのエゴいみたいなのが芽生え始め、UKから次回作の話も少し上がりましたが、お互いの意見が合わず自然に契約も解消されてゆきました。僕にもしプロ意識みたいなものがもう少しあれば状況は変わっていたかもしれませんが後悔はしていません。
同時期にドラムの村尾君が家の都合でバンドを去らなければならなくなりました。再び訪れた危機でしたが、当時アンダーフラワーレーベルからリリースしている大阪のバンドでMulti Colored VoxというバンドのドラマーがBaconに興味を持ってくれているとの情報が入りました。笑瓶が彼らのライブを観に行き、この男しかいないと確信したみたいで、加入への交渉役を担ってくれました。僕自身は彼らのライブを観たことがなかったので、その時は渋い返事でした。笑瓶が一緒にスタジオに入る機会を設けてくれ、そこで初めて現ドラムのアルが登場します。当時はアルとは呼ばれてなく、コンがあだ名やったと思います。
僕はあまりノリ気ではなかったのでスタジオで一言も話さなかったのですが、アル(当時はコン)から「寅さん好きなんですよね?僕も好きです」と言われてこの男しかいないと確信できました。当時の僕は寅さんに狂信的にはまっていて寅さん好きな人以外は話さないというくらいのものでした。かくて正式にアル(当時はコン)を正式に迎え入れることになりました。加入と同時に「君にはアルと名乗ってもらう」と言いました。
アルと言う名前の由来は先先代のドラマーの松下さんが命名したもので、彼も快く受け入れてくれました。
村尾君の最後は劇的なものでした。ライブでは大木のような存在で、一人黙々とリズムを刻んでいたのですが、
ラストライブでは自身のドラマーとしての終止符だったこともあり、今までに見せたことのないエモーショナルなものでした。(このイベント模様は10周年DVDでみれます)
村尾君のその後は主に弾き語り活動に専念してましたが、現在の消息は不明です。もしこれを見てたら一報いただきたいです。
※その後三鷹市で生活している事が確認できました(2016.11月補足)
5月5日 「さよなら村尾」十三ファンダンゴ。共演はBaby&CIDER
この間、アル(当時はコン)は必死で曲を覚えてくれてました。Multi Colored Voxからの脱退のタイミングとBaconの初ライブが近かったせいか、初ライブでは顔出しNGとのことだったので、馬のお面をつけてのライブになりました。今でいうとMAN WITH A MISSIONみたいな感じですね。見事な茶番劇やったと思います。その後立て続けに名古屋ロックンロール、クラブチッタ川崎とライブが続きました。もちろんその頃にはすでに馬のお面はありません。
6月25日 十三ファンダンゴ。共演はモーモールルギャバン、東藤リカ、植木遊人
この頃から弾き語りでのライブも頻繁に行うようになります。SET YOU FREEが植木遊人と町田直隆の全国ツアーをしていたので、時折ツアーにくっついて回ってました。この頃は毎日が刺激的で後に発表されるアルバムに多大なる影響を与えてくれます。こうどたくや&クレイジーホース名義でアルと2人で出演したこともあります。もちろんその時は馬でした。
2007年
この年くらいから東京へ行く回数が徐々に減り、大阪で面白いことをしようと企むようになりました。DVDにもなっていますが、十三ファンダンゴで3日間連続Baconが出演した「にくのひロックフェス」や、淀川の河川敷での弾き語りライブ「YODOGAWA FOLKFES」を開催したりしました。沖縄民謡やトラッドフォークに興味を持ち、これまでの泣きメロパワーポップから少しずつ離れていきました。この時期のBaconのライブは最も激しく、お客さんのノリもより激しい感じでした。エモ期とでも言いましょうか。にくのひロックフェスのDVDに凝縮されてますので是非みてください。
そんな中急接近したのが大阪のザ・アウトロウズというバンドです。彼らとは東京、名古屋、小倉を回るツアー「路地裏バタフライ」を開催し、大阪の悪ノリを各地に広めることに成功しました。
ツアーの傍、いよいよフルアルバムの製作準備に入ります。
2008年
最も激しいBaconを詰め込んだ3rdアルバム「9tracks Hi!」は久しぶりに自分たちだけで製作し、宣伝し、販売しました。(HOOK UP RECORDSさんに大分助けてもらいましたよ・・・・)そしてバンド史上初の東名阪ワンマンライブを行います。
順風満帆のように見えましたが、バンド内ではすでに笑瓶が辞めることが決まってました。彼が辞めるのはこれまで築き上げてきたバンドの個性が一気に消えることになります。正直なところ、ライブには彼のステージアクションを楽しみに来る人が大半だったのでバンドにとって存続の危機に立たされた年になりました。アル、唯、こうどの3人で西中島南方のファミレス「ガスト」にて今後を語り合ったのを覚えています。
数時間の話し合いの結果、解散ではなく存続の道を選びました。
東名阪のワンマンは笑瓶が辞めることもあって各地で大入りで、単純に嬉しかったのですが、頭のどこかにこんな光景はもう2度と見れないだろうなという思いもありました。
約7年間ともに活動してきた笑瓶はザ・アウトロウズの年末カウントダウンイベントで劇的にバンドを離れていきました。(このイベント模様は10周年DVDでみれます)
2009年
●Bacon活動休止期「田」時代のメンバー
:Voこうどたくや Dr永江'アル'由侍 Ba森山恋(サポート)orポーク森山(サポート)
存続の道を選び残された3人。ちょうどいいタイミングで森山君が数ヶ月の入院を余儀なくされることになり、アルと2人でBaconの立て直しを図ることになります。さすがに2人でBaconを名乗るのは違うなと思ったので、僕の内縁の妻「田中」から一文字頂戴し「田」という名前で再出発しました。初ライブは梅田シャングリラだったと思います。
一瞬ピアニストに転向することも考えましたがあえなく挫折。アコギとカホンの編成で森山君が退院するまでの数ヶ月間、数多くのライブを重ねました。同時進行で、これまでとは全くことなる方向性で曲作りをします。泣メロパワーポップにこだわらない、ジャンルレスな楽曲を作ることがとても楽しく、バンドが崩壊の危機にあるにもかかわらず、わりかし気楽に構えていました。田の活動の傍ら、いいキーボード奏者がいないかライブの度に共演者をチェックしていました。周りのバンドマンや関係者からは次期キーボード奏者も笑瓶っぽい人材を期待されていましたが、僕は背丈が同じくらいでコーラスが出来て、かつジーパンの似合う女性がよいと考えていたので、いろいろ紹介の話は頂きましたが、なかなか正式に依頼するに至りませんでした。
6月頃、森山君から彼の学生時代の友人から企画に誘われます。
そのバンドHOSOMEは当時関西ゼロ世代最後の刺客と言われてまして、その名のごとく鋭利な刃物で聴衆をバッサバッサと切り倒していくようなライブでした。そして誘ってくれた学生時代の友人がまさかの理想にピッタリのジーパンを履いていたキーボード奏者で、ライブの翌日、早速「うちで弾いてもらえないだろうか」とmixiメールしました。断られると思ってましたが、レコーディングの手伝いならとまさかのオッケーをもらいました。その夜、僕は安堵感から半年ぶりにお茶を飲みに出ました。
森山君の学生時代の友人、森田(当時は大沢)式子さんの登場です。
彼女は笑瓶とは全く違うタイプのプレイヤーで、かつコーラスとしても素晴らしい声質を持っていたので、次々と新しい発想が生まれ、曲作りが楽しくて仕方ありませんでした。
式子さんも楽しんでくれてましたので、当初レコーディングのみの手伝いの予定でしたが、ライブも参加してもらえないだろうか?とお願いしたところ出来る範囲ならとまさかのオッケーをもらいました。
●メンバー:Voこうどたくや Key大沢式子(サポート) Ba森山唯 Dr永江'アル'由侍
いよいよ初ライブが行われます。笑瓶の後を務めるのは、相当なプレッシャーやったと思いますが式子さんはあまり何も考えてなかったように思います。
メンバーチェンジはお客さんにとって、今までのままでいて欲しいのか、新しい姿が見たいのか、当時はあまりよくわからなかったのですが、僕らはあまりにも変わりすぎた。
お客さんの戸惑い感はステージの上からヒシヒシと感じましたが、誰の制約も受けずに自由な楽曲制作ができる環境だったので、特に気にすることもなく楽しくマイペースに活動して行きます。
2010年~2015年
http://baconyui.blog.jp/archives/cat_508500.html
※Ba:森山唯の2012~2015年までの歴史をまとめたブログ
http://blog.livedoor.jp/koudy/archives/2017-09-17.html
※Voこうどがまとめた2015年
2010年当初は毎月の様に東京に行っていましたが、だんだんバンドもマイペースな活動になります。式子さんと作ってきた楽曲のレコーディングも始まりました。エンジニア志望の森山君の後輩が録音し、mixをUK時代にお世話になった岩田さんにお願いしました。
4thアルバムの「月が朝日に変わるまで」は2011年の5月に発売されます。以前のようなゴリゴリなサウンドではなくフォーキーな感じのアルバムなので昔からのBaconを知ってる人からしたら、もしかしたら残念に思ったかもしれませんが、新しい方向性を打ち出せたことがとても嬉しく思います。このアルバムが評価されるのは少し時間がかかると思ってましたが最近になってようやく売れ始めてきたのはなんとも嬉しい限りです。
ここから先は少しはしょって、主な出来事を箇条書きにしていきます。
・アルバムが発売される半年ほど前に僕は当時やっていたコンビニのバイトを事実上クビになり、某公共交通機関に就職します。
・森山君も当時の仕事を辞めてシステムエンジニアの道を志します。
・アルはイヌガヨに参加します。
・式子さんはHOSOMEの活動の他に何バンドもかけ持つ売れっ子のミュージシャンになり、某会社員と結婚します。
そんな感じで周囲からは「まだやっていたのか?」と言われるくらいマイペースな活動をしてきましたが、結成15周年となる2015年の4月、突如、古巣の扇町para-diseにてワンマンライブ「まだやっていたのか?」を開催します。
久しぶりのワンマンともあって昔からのお客さんも多く集まってくれ、チケットは見事ソールドアウトしました。「まだやっていたのか?」から「まだやっていたのだ!」に変わる瞬間です。
ワンマンの成功に味をしめた僕たちは再び少しづつ活動の場を広げて行きます。と言いつつも、周りのバンド事情が変わりすぎていてついていけませんでした。過去の栄光も捨て一からのスタートです。
久しぶりにライブハウスに遊びに行くとお客さんの若さとファッションの変化に驚きました。しかし、40を間近にしてこの人たちを巻き込んでやるという初々しい闘争心が自分の中に沸沸と湧き上がってきました。
夏には本当にご無沙汰だったSET YOU FREEのイベントにも再登場しました。
秋にはもし居たら、自分の娘くらいの歳の女の子から企画に誘われました。
もうそんな歳になってしまったのか、と不思議な気持ちでしたが彼女たちのイベントに出る若いバンド達を見て、なんとなく今立ち上がる時期ではないだろうか?と強く思うようになり、現在に至ります。
2016年その①
●メンバー:Voこうどたくや Key森田式子(サポート) Ba森山唯 Dr永江'アル'由侍
http://blog.livedoor.jp/koudy/archives/2017-09-18.html
http://blog.livedoor.jp/koudy/archives/52304920.html
http://blog.livedoor.jp/koudy/archives/52304954.html
Voこうどがまとめた2016年のブログ
とりあえず、今はメンバーの身辺状況も忙しいながらも、なんとか月に3本ほどのライブができるまでになりました。また共演者は一回りも二回りも歳下になってしまいましたが、おかげさまで仲良くさせてもらってますし、いい刺激ももらってます。16年間インディの音楽シーンを見続けてきましたが、だいたい3、4年のサークルで変化があることを感じます。お客さんも年をとるし、僕らも年をとる。数年前、毎回のようにライブに足を運んでくれてたお客さんが、いいお母さんになってる姿を某SNSで見つけたりすると、時代の流れと共にバンドを続けてこれたんだなと、空を見上げてしまいます。
そして・・・・2017年には6年ぶりに音源を発表する予定です。お待たせしました。お待たせしすぎて、初めましての方がふさわしい気もしますが。
そしていつか見た景色。満員の十三ファンダンゴでのワンマンで見た景色。今ならばもう一回見れるのではないか?と思っています。
そんな夢を抱きつつ、これからもなんとか身辺のバランスを上手く取って、皆さんにいい音楽を届けれたらと思う次第であります。
こうどたくやの個人的主観が強い文章でしたが、ここまで読んでくれた皆さんありがとう。
今後も加筆修正していきます。また過去のライブの日程等、情報あらば随時募集してます。
●ベーコン活動史その②
2016年~2018年
執筆者こうどたくや
2016年その②
●メンバー:Voこうどたくや Key森田式子(サポート) Ba森山唯 Dr永江'アル'由侍
Baconの歴史を左右するバンドが現れた。
ナードマグネットである。
彼らは僕らが活動低迷してる間に結成し、着々と人気をつけて気づけば大阪代表パワーポップバンドと言われるようになっていた。彼らと初めて共演したのは2015年1月の扇町para-diseだが、僕は『ぶらこうど2016』(#ぶらこうど)で足を痛めて階段を降りるのに苦労したのでほとんど見れなかった。そしてその年の冬に須田くんと初めましての挨拶を交わし,好きなバンドや映画、AVにいたるまでありとあらゆることを深く語り合い親交を深めた。
(しかし実際はその前に2,3回挨拶していたみたいだが・・・・)
須田くんから「翌日、天王寺でライブをやるので観に来てください」といわれ、初めてナードマグネットのライブをみることになる。久しぶりにお客としていくライブハウス。そのとき出てたバンドは忘れもしない、ヤバイTシャツ屋さん、クリトリックリス、そしてナードマグネットだ。
(招待されたのに、スギムさんの所で「田中」と言う名前でチケット予約してライブを見に行ったそうです。色々失礼しました。)
お客さんの雰囲気は僕らが現役バリバリの頃と全くことなり、特に口紅が真っ赤でどこか70年代っぽいファッションの女の子が多かったのには驚いた。もちろん若くてピチピチや!!
なんとなく肩身の狭い思いをしながら隅っこで缶チューハイを飲みながらライブをみていた。
ヤバTは元気いっぱいでお客の大半はこのバンドの目当てだったと思う。
スギムさんも安定のステージ。
そしてナードマグネット。
僕らが今までやって来たパワーポップを高らかに掲げシンガロングするお客さんの姿を見てひとしずくの涙が溢れた。ルックスもファッションも普段着のままの彼らが大勢のお客さんに受け入れられてるのをみて、もしかしてまだ僕らにも可能性があるのではないかと思い、再びオーバーグラウンドに這い上がろうと決意した。
2017年
●メンバー:Voこうどたくや Key森田式子(サポート) Ba森山唯 Dr永江'アル'由侍
2017年の幕開けは長い間連れ添ってきた内縁の妻と離縁したことから始まり、穴があいたような気持ちになったのもつかの間、ミニアルバム製作に向けての準備が始まった。この時期に作ってた曲は今でもライブでおなじみ「恋してるベートーベン」「それゆけ未来」「ポラロイドカメラ」と原点に回帰したポップな曲達。余談だか2016年は「時間」という10分12秒のプログレッシヴな曲に全てを費やした・・・・・にもかかわらず未だ音源化されず、ライブでもやらない幻の曲があるんだがいつの日か再び披露する時があるのだろうか?
音源を作るプランは立ったものの流通してくれるレーベルがない。色んなツテを使って僕らの音楽を広めてくれる人を探したが、昔とった杵柄はすでにウドの大木と化していた。
ある日のライブで神頼みレコードのベーシスト、エグチくんがレーベルをやっていることを知り、元々Baconやテルスターを学生時代から聴いていてくれてたこともあり、ダメ元で流通してもらいたい旨を伝えると、即答で「やりましょう」と言ってくれた。彼は僕らよりも15ほど若く、音楽業界に対する嗅覚も鋭い。心強い味方ができた。
まず僕らがオーバーグラウンドにでるには年を取りすぎている。若いお客さん達はもはや僕らのことを誰も知らない。そんなバンドの音源を流通させるのは正直ハイリスクしかないのだが彼は愛だけで引き受けてくれた。
ライブの本数も段々と増え、まあ昔のように酒池肉林とはいかないまでも、それなりにインパクトを残すライブをし続けれたと思う。
2017年3月
※こうどさんは全く触れていませんが・・・・7inchをほぼ会場限定リリースをしてレコ発もやりました。
大事な事なんで追記しておきます。
そしてその7inchは高橋元希くんや式ちゃんのお陰もあってディスクユニオンで取り扱いもして頂きました。
ありがとうございます!
http://blog.livedoor.jp/koudy/archives/52305072.html
Voこうどによる2017年の7inchレコ発のお話
4月に、初めて北海道の札幌でライブをした。いつもお世話になりっぱなしのSET YOU FREE。
この日はボイガルのシンゴくんが喉の不調により出演者のボーカル全員で代打を務めた。もちろんライブは忘れられない物となったが、そのイベントの終わり間近にステージ上のモニターにシンゴくんを応援するメッセージ動画が流れた。そして、そのモニターに映っているグループに心惹かれた。BiSHである。詳しくはこちらブログにあるので是非のぞいてみて欲しい。とにかく、この日からBiSHの属するWACKというチームがBaconの歴史の中にじわじわと食い込んでくるのだった。
5月にも忘れられないライブがあった。先述したナードマグネットと僕らが結成する前から活動し、90年代後期の渋谷、下北沢のギターロックシーンで重要な位置をしめていた桂田5とソフトタッチとの3世代パワーポップバンド夢の共演。桂田5はBaconが結成して3回目のライブで共演し関東のバンドで初めて仲良くさせてもらった仲だ。ボーカルのジンさんはユーモアを交えながら世の中を斜めにみる眼光鋭いシンガーだ。
ソフトタッチも僕らが活動する以前から頭角を現していたイメージがあり勝手に大先輩と思っていたが、実は活動歴もそんなに変わらず、歳も同じだったことを知り、急に親近感が湧いた。
イベント企画者のゆっこもBaconの初期から知ってる仲でこの日は久しぶりにすっかり飲めなくなったビールを飲みたくなるくらい素敵な夜でした。
9月にはOTODAMAのSET YOU FREEテントにトリ前で出演し日が暮れかけた薄暗い夜に星が瞬く空の元、熱狂し砂ぼこりが舞い上がる中、踊り狂うお客さんの光景は忘れられぬ思い出です。
翌日は心斎橋のpangeaで今をときめくハンブレッダーズとベランパレードの2マンにゲストで出演し若いお客さんにも存在を知ってもらうことができた。
10月は11年ぶりにクラブチッタ川崎のステージに立つ。そこでなんとBiSHとの初共演を果たした。
先ほどと同じ記事になるがこちらのブログで詳しく書いているので参照してもらいたい。
※Baconはこんなライブをしました。
11月からはいよいよミニアルバム発売に向けてメンバー総動員でプロモーション活動に精をだした。
リードトラック「恋してるベートーベン」のMVを花柄ランタンのぷきちゃんと河内REDSのタダミくんに協力してもらって京都の鴨川で撮影した。監督は若干21歳の撮影技師、松田NAOYAくんだ。
いつの間にか僕らは1まわり以上年下の人たちと一緒に仕事をするようになっていた。
レコード屋さんのお店周りもひさしぶりのことだった。
特に森山くんの異常なほどの熱量のこもった営業は敏腕レーベルオーナーのエグチくんでさえ驚愕した。
一方で僕は原因不明の病でほとんど寝ていた。
この記事でもってメンバー、エグチくんらに改めて感謝の意を表したい。
そんな僕らが頑張って売り込んだ渾身のミニアルバム「ポラロイドカメラ」(ELEM-1001/elevatormusic)が12/6に無事ドロップされ、久しぶりにタワーレコードの試聴機に入った音源を聴き涙したものだ。
タワーレコード梅田茶屋町店にて僕らの音源を試聴機で聞いてくれてる人をみつけては「歌ってるの僕です」と声かけて地味なセールス活動をしていたことも忘れられない。
そんなミニアルバムをひっさげて年末12/29に十三ファンダンゴでワンマンライブを開催した。
ファンダンゴでのワンマンは2008年以来。
当時来てくれていたお客さんや最近僕らを知ってくれた方々、ミニアルバムを買って興味本位で来てくれた方々、若いバンドマン達が勢ぞろいしてくれて、年の最後にふさわしい宴となった。
2018年
●メンバー:Voこうどたくや Key森田式子(サポート) Dr永江'アル'由侍 Ba森山唯 Baエグチフーフ(サポート) Keyたけしたりょう(サポート)
ある日エグチくんにBaconの楽屋トークに華がないと言われた。
そりゃあそうだ。
僕らは若くない。
会話に内容は誰々のことが好きとかオシャレなお店の話とかではなく、理想の死に方とか、病気の話とか、えげつないワイ談が多くをしめるようになった。
体もガタが結構来ている。
しかしバンドが大きくなることへの夢は口には出さずともメンバーそれぞれ抱いていたと思う。
なんとか体と心のバランスをとりながらも。
2月にはそんな僕たちを勇気付けるような新曲「それゆけ未来」の撮影をおこなった。
撮影技師松田、エグチ、そしてメンバー4人がMV制作をめぐっていろいろ議論を交わし合う姿は美しい姿だった。
このMVは初めてのメンバー総出演で演技もした思い入れのあるMV。
この曲はもともと結婚する友人達に捧げようと思って書いた曲なんだが自分たち自身がはげまされるとは・・
ただこの曲、歌うのにはキーが高い・・
3月、SET YOU FREEの千葉さんからGANGPARADEと東狂アルゴリズムの3マンやりませんか?と連絡をいただいた。
3WAY DANCEというイベント。セッチューに出演してるバンドとWACKのグループが共演し最後にコラボをするというイベントでいつか出て見たいと思っていた。
アルゴリズムは古い仲だが、GANGPARADEは昨年ハマったBiSHと同じ事務所に所属するグループで通称ギャンパレと呼ぶというくらいの知識しかなかった。ギャンパレとコラボするにはキーボードがあったほうがよいとのことで僕らに白羽の矢が立ったのだ。その矢がこの先僕たちの心臓にグイグイ突き刺さることになるとはこの時点では考えられなかった。
出演が決まってからギャンパレのCDを買い、Youtubeを観まくってるうちにだんだんとこのグループの目指しているところは僕らの目指している世界に近いかもと勝手に親近感が湧き始めた。
そしてコラボの曲「BREAKING THE ROAD」をスタジオでセッションしているときにはもうすっかりこのグループの虜になっていた。
4月7日十三FANDANGO
僕らが会場入りすると同時にギャンパレの皆さんがファンダンゴから出て来た。
みなさん一人ひとりご丁寧に挨拶してくれて、今まで「あっすーっ!!」で通して来た僕らは久しぶりに襟を正す気持ちでご挨拶した。TVでみるよりもずっと小柄でめちゃくちゃかわいかったので緊張しっぱなしだった。
メンバーの皆さんがずっと真剣に僕らのリハーサルをみてくれてて、もう一つのコラボの曲「それゆけ未来」を歌い出すとメンバーさんがそれぞれ踊ってくださっている。ギャンパレのメンバーさんからしたらBaconて誰??くらいの存在感、知名度しかないにもかかわらず、全力で今日のイベントを楽しもうとする気持ちが溢れてて、僕が勝手に思っていたアイドルの裏の姿とは真逆のとてつもなく人間味あふれ、とてつもなくよくしゃべり、とてつもなく明るい皆さんで、気づけば僕らは完全にファンになっていた。
ライブはとても興奮した。
アイドルのお客さんはバンドには興味がないと勝手に思っていて、そんなお客さんにブーイング覚悟で一矢を放つつもりで全力で立ち向かって行ったらなんと倍返の熱量で持って応えて来たことにものすごい感動した。
そしてはじめてのコラボ、僕らの曲「それゆけ未来」でギャンパレの皆さんが踊ってくれ僕らがギャンパレの「BREAKING THE ROAD」を演奏し興奮の渦と化した。
後日ギャンパレのファンの方が、今までのギャンパレのライブの中で一番カオスな空間だったとツィートされてるのをみて僕は心の底から安堵のお茶を飲んだ。
このイベントから僕らスタッフを含めほぼ全員がギャンパレの虜になり、その熱意が通じてかこの年はあと2回も共演させてもらえた。
その後、僕が気管支炎をわずらって声が出なくなったり、森山くんが入院したり、式子さんが家庭の事情で活動をお休みすることになったりとバンドにとって結構な荒波にのまれかけましたが、色んな方々の助けのもと座礁や転覆することなくうまいこと舵をとり、少しずつですがBaconの名前も広がりライブの集客も増えた。
12月に行ったワンマン(※ありがたい事に単独公演の過去最多動員でした)ではsoratobiwoのたけしたりょうちゃんが新たに仲間になってくれてフレッシュな気持ちで2019年を迎えている。
2019年
●メンバー:Voこうどたくや Dr永江'アル'由侍 Ba森山唯 Keyたけしたりょう(サポート) Key森田式子(サポート)
来年、2020年は結成20年。
こんな世知辛い世の中を躍らせるべくますます高みを目指して活動してゆきたい所存であります。
これからもBaconをよろしくおねがいします
またそろそろ続き書かないとね。。
2024年7月